南渡(nándù)の意味

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南渡[南渡]

ピンイン

nándù[nan2du4]

意味

海を渡って南に行く. [史]南に移る.難を避けて揚子江の南に都を移したことをいう:晋の司馬睿(元帝)が建業(南京)に,宋の趙構(高宗)が臨安(杭州)に遷都したことなど.

詳細解説(製作中)

[ nán dù ]

1.「南部度」とも呼ばれます。水を渡って南へ。「チューの歌・九章・悲しみの陰」:「霊廟の陽が空の果てに達すると、ミャオ・ナンドゥはそのようになります。」ワン・イーのメモ:「交差、一度」「歴史的記録・ジンファミリー」:「春の5年、ジン・ウェンゴンは魏にいるふりをして曹操と守護者のフー・シューを攻撃したかった。彼もヘナンから来て曹操に侵入し、魏を攻撃した。」タン・リウ・ゾンユアンの詩「趙チェイス2月に首都に行ってBaTing Shangに行く」:「11年前、南フェリーの乗客で、4000マイル離れたところから家に帰ります。」

2.犹南迁。晋元帝、宋高宗 皆渡 长江 迁于南方建都,故史称南渡。唐 李白《金陵》诗之一:“晋 家南渡日,此地旧 长安。”《宋史·孝宗纪赞》:“高宗 以公天下之心,择 太祖 之后而主之,乃得 孝宗 之贤,聪明英毅,卓然为南渡诸帝之称首,可谓难矣哉。”元 赵孟頫《岳鄂王墓》诗:“南渡君臣轻社稷,中原父老望旌旗。”郁达夫《题闽县陈贻衍西湖记游画集》诗之一:“南渡江山气不雄,钱塘 苏小 可怜虫。”

词语解释

南渡[ nán dù ]

⒈  亦作“南度”。

⒉  渡水而南。

⒊  犹南迁。晋元帝宋高宗皆渡长江迁于南方建都,故史称南渡。

引证解释

⒈  亦作“南度”。

⒉  渡水而南。

《楚辞·九章·哀郢》:“当 陵阳 之焉至兮,淼南渡之焉如。”
王逸 注:“渡,一作度。”
《史记·晋世家》:“五年春, 晋文公 欲伐 曹,假道於 卫,卫 人弗许。还自 河 南度,侵 曹,伐 卫。”
唐 柳宗元 《诏追赴都二月至灞亭上》诗:“十一年前南渡客,四千里外北归人。”

⒊  犹南迁。 晋元帝、宋高宗 皆渡 长江 迁于南方建都,故史称南渡。

李白 《金陵》诗之一:“晋 家南渡日,此地旧 长安。”
《宋史·孝宗纪赞》:“高宗 以公天下之心,择 太祖 之后而主之,乃得 孝宗 之贤,聪明英毅,卓然为南渡诸帝之称首,可谓难矣哉。”
元 赵孟頫 《岳鄂王墓》诗:“南渡君臣轻社稷,中原父老望旌旗。”
郁达夫 《题闽县陈贻衍西湖记游画集》诗之一:“南渡江山气不雄, 钱塘 苏小 可怜虫。”

国语辞典

南渡[ nán dù ]

⒈  渡水而南。

《史记·卷三〇·晋世家》:「还,自河南渡,侵曹,伐卫。」
《楚辞·屈原·九章·哀郢》:「当陵阳之焉至兮,淼南渡之焉如。」

⒉  晋五胡乱华,晋室渡江,自洛阳迁都建业,称为「南渡」。

《晋书·卷五九·汝南王亮传》:「永嘉末,以寇贼充斥,遂南渡江。」
唐·李白〈金陵〉诗:「晋家南渡日,此地旧长安。」

⒊  宋徽、钦二宗,为金人所执,宋室自汴梁,迁都临安,称为「南渡」。

《宋史·卷三五·孝宗本纪·赞曰》:「高宗以公天下之心,择太祖之后而立之,乃得孝宗之贤,聪明英毅,卓然为南渡诸帝之称首。」
《初刻拍案惊奇·卷二》:「后来高宗南渡称帝,改号建炎。」

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